【テニスプレーヤーへの道】
テニスとの出会いは、中学1年生の時でした。
サッカー少年だった私にテニスへの道を作ってくれたのは父親でし
「勇策、テニスなんかどうだ?
将来も続けやすいぞ!」
この言葉で私のテニス人生がスタートしました。
入部した神奈川県私立浅野中学校硬式テニス部は、テニスコートが
ラケットとシューズを地元十日市場駅にあるラケットショップオ
サンスポーツでは素晴らしいコーチや先輩達に恵まれました。
次第にテニスの楽しさに魅力され、
試合に勝ちたい、
スクールのレッスン前には、サーブ練習をしに行きました。
学校では、
ランニング・壁打ち・素振りなどらコートが少ない状況でどのように強くなるのかをいつ
中学3年生の終わり、
試合で勝ち上がっている人は、
荏原SSC・シンズあざみ野・YSC・
ファーイーストは、
サンスポーツの栗田コーチも、
しかし、私の年齢では遅すぎました。
体験レッスンの後
コーチからは、選手クラス不合格の連絡が来ました。
しかし・・・
僕の知らないところで、母がコーチへ相談をしてくれていました。
「うちの子はガッツがあります。
どうか入れてあげて下さい。」
母の強い気持ちのお陰で、
僕は数ヶ月の、試用期間をもらいました。
ほかの人の迷惑になるなら辞めてもらうという厳しい状況でした。
自分が日本のトップジュニアと練習できる環境に心踊りました。
練習に食らいついて、1球1球に気持ちを入れてボールを打ち、必死にトレーニングに食らいつきました。
その気持ちが伝わったのか、
月謝・交通費・用具にかかる費用等
父が全て払ってくれた事に感謝しています。
高校3年間様々なことがありました。
高校3年生の時に、ファーイーストの小学6年生に負けて泣いた事もありました。
コーチから「やる気がないなら帰ってもいい」と言われ、
試合に負けて悔しくて、みなとみらいの海を見ながら夜まで家に帰れなかった日もありまし
一番の目標としていた、
学校の試合で県大会の本戦に出るという目標は達成されました。
シングルベスト64
ダブルスベスト32
ダブルスのペアは、角田君でした。
進学校にもかかわらず、
彼は今テニスコーチの仕事をしています。
自分の好きな道を選び、進んだ彼を心から尊敬しています。
高校3年生の夏
高校テニスを引退してから、
私の進路への迷いが始まりました。
テニスに関わる仕事がしたい。
テニスコーチ
トレーナー
私は横浜リゾートスポーツ専門学校へ見学に行き、
大学体育会テニス部で頑張るという選択肢もありました。
しかし、親・
「テニスコーチならいつでも目指すことができる。
医師をしながらテニスに関われる道を探しました。
スポーツドクターという仕事がある。
これならテニスに関われる。
ある日の夜公園に行き、
あるゲームをしました。
今から、自分の本気の素振りとトレーニングをする。
「自分が自分を吐くところまで追い込めるか。」
もし吐くまで追い込めたら、テニスの道へ。
吐けなかったら、医者の道へ。
夜中の公園で泣きながらひたすら全力の素振りをしました。
「オェッ。」よしきた!
と思ったのですが、内容物がでてきません。
「オェッ。オェッ。」
食べ物が無いのは消化しきった後ならばわかる。
胃液くらいは出てくるだろ!
と思ったのですが、
「相当気持ちが悪くなるところまでは行ったけど吐けなかった。」
自分はスポーツ医学の道へ進む事になります。
インターネットでまず検索したのは、
「医学部 テニス部」でした。
過去の戦績を見た結果、
順天堂・昭和・日大
このどこかに行けば強いチームに入れるだろうという事がわかりま
早速地元にあった、昭和大学のテニスコートへ見学に行きました。
部員の方が偵察と思ったらしく話しかけてくれました。
「なんだ、高校生か!ラケット持ってんならちょっと打っていく?
この時私は、ラケットは常に持ち歩くべきであると学びました。
打っていただいたのは
昭和大学の小川さん。
インターハイ出場経験のある選手でした。
「めちゃくちゃ上手い先輩がいる!
この気持ちをモチベーションに猛勉強をしました。
運良く入れてもらえたのは昭和大学の敵チーム日本大学医学部硬式テニス部でした。
体験入部の前に学校のコートを見に行き心踊りました。
ちょうどその時一番強い先輩2人がラリーしていたのです。
体験入部の際にはすでに、
入部にあたって最も不安だったことの1つに飲み会があります。
「毎日1秒でも多く、最大の集中力でテニスの事を考えていたい。」
わずかなところで勝敗は決まってくると感じていたからで
入部の際に先輩へお願いしました。
「自分はテニスが本当に強くなりたいので、お酒は飲めないです。
それでも良いでしょうか。」
優しい先輩方はこの問題児を受け入れてくれました。
その後医学部テニスの中で、酒を飲まないストイックな選手として他校も知る存在になりました。
普段から他の人とは違う余念が無い生活を送る事で、対戦相手は見えないプレッシャーを感じていたと思います。
大学部活時代はいいことばかりではありませんでした。
1つの問題は、
日本大学テニス部の安藤監督に許可を頂き出る事が出来た最初で最後のチャ
新進では2次予選セミファイナルという結果でした。
その後日本大学の監督が変わり、
その時の悔しさが今の自分の強いモチベーションとなっています。
大学時代の戦績として関東医科歯科リーグ個人戦 2連覇を達成しました。
これは事実で、素晴らしい結果だと思います。しかし本当は、医学部にはもっと強い人が大勢います。
医学部の個人戦はテスト日程による調整など運営が難しく、成り立っていません。本当に強い人は出てこなかったりするわけです。
「自分は今後もこのようなしっくりこない戦績を誇りに生きていくのか・・・。
春関夏関には医学部なので
出れなかったんです
と言って行きていくのか・・・。」
周りの大学テニス部出身者に、
「俺だってやればできるはずだ。」
医学部テニス部時代に最も邪魔だったのは、テスト勉強の時間です。
この時間は、自分の練習や成長を妨げる本当に厄介な時間でした。トレーニングで鍛えた体が、テスト期間中に無効化されていくのが分かりました。
「テニスしている事に、誰にも文句を言わせない。」
これをモチベーションに、勉強に耐えました。
そして医師になります。
2年間の研修とリハビリテーション科での1年間。
病院の中で自分の居場所を探すことに必死でした。
スポーツドクター・予防医学の専門家・トレーナー・理学療法士など
様々な人に会いに行き、
スポーツ医学とは何なのか
を自問自答していました。
病院で亡くなる人・苦しむ人からぼくが受けとった、
「人間はいつか死ぬ。だから、
人生やりきって安らかに死ぬ人
人生やり残した事があって、死ぬときに後悔する人
その違いは、
誰かのために生きる人生ではなく、
誰かに都合の良い人生ではなく、
自分だけが知っている
自分の人生の目的に対して
本当に自分がやりたいことに対して
自分自身が責任をとる生き方をする
ことだと思います。
長い時間と辛い経験を経て、
私はその事に気がつくことができました。
トレーナーとして生きていく事を決めて病院を辞め、
この時から、自分が思ってもみなかった幸運が続きます。
ニトリの方々がとても優しく、日程調整を許可して下さったおかげでテニス国内大会に出る事が可能になりました。
試合に出て色々な選手たちと接し、
「自分は、自分自身が経験していない事を人に伝える事はできない。
自分が最も尊敬しているのは選手であり、
このように考えるようになり、
ようやく自分の持つ本来の方向性に気づく事になります。
2018年11月
成功の9ステップというセミナーに参加しました。
様々なワーク・今までに無い経験・仲間との対話を繰り返し、
そこで学んだことの1つが、
人生の基準を
<アウトスタンディング>
に設定することです。
アウトスタンディングというのは、
超越したレベルということです。
その領域に到達するためには、自分の状態を常に100%に保つ必
そのために状態管理のスキルを学びました。
自分の状態管理を行い、自分の可能性に気づき、
その時私の心の中には、テニスプレーヤーとしての自分がいました。
テニスプレーヤーとしての私の役割は3つあります。
・スポーツ医科学の知識を実証すること。
・人生はやりたいことをやるためにあるんだと伝えること。
・サポートして下さる方を逆に応援すること。
この役割を果たすために、
アウトスタンディングな基準をもってこれからの選手活動に取り組んで行きます!!
これが、テニスプレーヤー岩井 勇策のスタートです!!
2018/12/3 ステップ1 決断
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から